多部未華子は間違いなくかわいい

世界感を感じられるゲームが好きだ。キャラクターとのやり取りでその世界観を感じることができるとすごく良い。
Motherとかmoonとか。最近やったものではダントツでVA-11 Hall-A。あとBlack Birdも。

一方でSkyrimみたいな、その壮大な世界に直に触れられるぜ!みたいなゲームはそこまで…って感じ。
広大な世界が用意されていて、自由に冒険が出来てっていうのはいいけど、あまりにも中身が薄味。
結局のところ自分は、主人公がどう生きていくかよりも、その世界にいる住人がどう生きているかが見たいんだな。
(あの手のゲームは親がDungeons & Dragonsみたいなテーブルの上で遊ぶゲームだからああいう作りになってるんだろうから、こっちがよる店を間違えてるだけ)

世界感を楽しむことができれば、自分の脳みそは簡単に満足で満たされる。
けどビジュアルで世界感を楽しむことは出来ても、きっとすごくコスパが悪い。
表現なんてある程度縛られていても足りない部分を想像力でふくらませることができるんだから。
流麗で壮大な世界を全部用意する必要はない。ようは中身だ。いい感じの舞台・キャラクター・ストーリーが揃ってさえいてくれれば、あとは全部静止画でもこっちは勝手に満足するんだから、製作者はそこに力を入れといてくれ。
ツラなんてふつうでいいんだ、ふつうで。面食いは悪。


とか考えていて思った。ふつうのツラってどんなだ?どのレベルのツラが、世間一般の普通なんだ?
「流石にMother1・2は少し古臭いけど、Mother3の絵なら全然今でもイケるよね?」とか思ったりもするんだけど、もしかしたら最近の子供は、もはやポケモンも3Dで動いてしまっているから「ドット絵なんて…」って感覚なのかも。
(今はドット絵を打てる人が減ってCGよりドット絵のほうがコストがかかって大変なんだよ!とかよく聞く。けどやっぱりドット絵がいいよね。)

となると自分の考えるふつうのツラは本当に他人のふつうのツラなのかっていう話だ。そう考えるとふつうと言わず、最低限みんなが『整っている』と思えるくらいのツラにはした方がいいか。

多部未華子ってかわいいと思うけど、これは日本国民の共通認識ですか?
万人受けするものを作りたかったらラインを多部未華子に置くのは危険では?
新垣結衣とか、みんなに受け入れられると分かっているところにしておいたほうがいいんじゃ?
そして悩んだ挙げ句、「えーい!妥協をなくせばみんなからの文句も出んじゃろう!」と決断を下し、ミス日本を選出。
そして醸し出されるコレジャナイ感。

大手は結局、全方位が納得できる大きな丸い作品を作らないといけないから大変なんだろうけど、結局ほとんどのユーザーはそこまでのものを求めていないはずなんだよな。
だから最近は尖った作品を作るインディーに勢いがあるんだろうし。

VA-11 Hall-AやBlack Birdもそうだったんだけど、ゲームに限らずしっかりと尖ったものを作って、自分を刺してくれる会社や個人に頑張ってお金を落とすようにしようと最近よく考える。
ひとりの消費者としてそのスタンスを崩すと、自分の遊び場が痩せこけていってしまう気がするからサボらず散財します。
それには、まず頑張って面白そうなものを発見できる環境や体制を整える必要があるんだよな。面倒だが、頑張ろう。

2019年は素晴らしい世界との出会いがあればいいね。

12月-2

1日24時間。労働8時間、睡眠6時間として残り10時間。
この『10時間×日数』が今後の可能性に繋がっていくとはわかっていても、
労働の8時間に体力・気力が吸われてずいずいと時間ばかりが目減りしていく1年となりました。

休日はぼーっとPCとにらめっこをしている時間が長くなって、植物人間一歩手前。
「この歳になってそんなことでどうするんだ。しっかりせねば」とか思いつつも、
「そうやって28年近く生きてきたわけだし、仕方ないじゃないですか」と言い訳が続く。

それにしても昔ほどゲームをしなくなったし、本も読まなくなったなぁ。
その割に無駄に飲酒量が増えて、贅肉も増えて、頭髪も…。
ダメだダメだ、1年を振り返ってもろくなことが思い浮かばない。

良かったこと…。新しい環境で、しかも一人で働き始めて、そこそこうまく回せてることか。
でも、この『一人で働き始めて』っていうせいで、誰も褒めてくれないし評価してくれないもんだからその実感が…。



後ろを見ても何もいいものが落ちていないので前を見ることにする。

「来年は」というと絶対にこの最後の一週間で忘れるから、
明日からは冒頭に書いた『10時間×日数』に何を詰め込めるかを意識して生きてみようと思う。

週1冊は本を読もう。もっとゲームをしよう。映画を見に行くのもいい。
娯楽でも良いから、とりあえず明確「コレをする」という意図を持って行動を起こすことが、
きっと今の自分に一番必要なことだと思う。

ブログも思い出したら書くよ。

では、よいお年を。

集中力と映画館

集中力というものが欠落している。

子供の頃からそれは変わっていないと思うけれど、「校正」という集中することを強いられ続ける仕事についたせいで、その欠点をまじまじと実感することが増えてきた。といってもこの仕事初めて3年ほどになるから、集中できていない自分対策が充実してきて大きな事故は起こしていないのでセーフということにしたい。(なんなら自分のミスをごまかす腕も上がった)


ちょっと話は変わるけれど、この前久しぶりにふらっと映画館に寄った。
チケットを買って、開場までぶらぶら。
開場したら、コーヒーを買って飲みながら席でぼーっ。
あとは映画が始まって2時間ほど映画を見た。
ペンタゴン・ペーパーズ」という映画だったと思う。面白かった。

2時間ほど何か一つのことに集中し続けることは、普段の生活ではなかなかない。家で漫画を読んでいてもスマホをチラ見してしまうし、好きなゲームをしてる最中でさえTwitterやネットニュースを横目で眺めながらだ。仕事中でさえ、ちょっとしたことで紙面・文章が頭から離れていく。集中力がないせいなのか、そもそも集中する気がないせいなのか、きつい縛りがなければ気持ちはあらゆる方向へ迷走する。

映画館で映画を見るという行為は自分にとっては良い縛りになった。映画が始まってしまえばスマホも見られないし、周りの邪魔はすまいと物音をたてないように気を使う。姿勢だって頻繁には変えられない。となると映画を見るしかない。仕事中は節操のないもう一人の自分が命令してくる。
「映画に集中するのです」

この映画を見ることだけに集中した2時間を久しぶりに味わった。なんとなく見に行った映画だったけれど、他のことをしている2時間とは密度が違う。この濃密な時間を2時間もずずずと吸いつづけると、なんとも気持ちいい感覚が胸に広がった。生活していく上でこういった感覚を味わえる時間を増やすことができれば、人生が少し良い感じに彩られる気がする。

自分が集中して何かと向き合っていられる時間をできるだけ作るようにしたい。

これからは定期的に映画館に足を運ぼうと思った。

12月

気が向いたので書く。

はや12月の中頃で、はや2018年で、はや平成も終わろうとしているわけだけれど、
じゃあ自分は何をやったかと聞かれると「ゔっ」としか答えられない。

多分人生で一番忙しい…というか単純に仕事に追われ続けた一年だったけれど、手応えがない。
穴を掘って埋めるだけの作業をしていた感じで、
歯を食いしばって、鼻血出して、タクシーの中でゲロを吐いてまで働いたと言うのに、
見返りがいくらかの給与だけっていうのはいかがなものでしょうか。
その給与も糞すぎて、何が自分でしたいかわからないレベル。

趣味を仕事にすべきではないという言葉は昔からよく聞くけれど、絶対に嘘っぱちだと確信している。
「金が貰えるから」という理由で興味がないことを頑張れる奴らは絶対にサイコパス

来年は将来の路線変更ができるように努力しようと決意した1年でしたとさ。

人類への道は険しい

ここのところLoLをよくプレイするようになった。

ただあのゲームの「自分が正しい」と思ってる人間同士の感情の紛争と遭遇しすぎて、
流石に「俺は何が楽しくてこんなゲームやってんの?」って気分になってきた。
今更上手くなりたい・勝ちたいとかは思ってなくて、気分よくゲームが出来れば(ある程度は)満足なんだけれど、
味方が罵倒し合っている空間で20分以上過ごさなければいけないっていうのは最早苦痛以外の何でもない。
自分にその災難が飛び火してこないように、傍観者に徹するのでいっぱいいっぱい。

人が他人に負の感情を向けていい瞬間って、実際はそんなに多くないはず。
それを発散する瞬間っていうのは「絶対に自分が正しい」っていう場面じゃなくて、
「周りから情けなく見られたとしてもこいつだけは道連れに…」くらいの気持ちは必要で、
そのラインをあれだけポンポン越えちゃう人が多いと、そりゃまあチンパンジーパラダイス。

ゲームって気持ち良い瞬間があるからやっちゃうものだけど、
そこがなかなか訪れずにストレスが溜まっちゃうとつい先祖返りしちゃうんだよね。

それは分かる。分かるが、喉元から出そうなそれをグイッと胃の中に押し込むのがホモ・サピエンス
一刻も早く、一人でも多くのプレイヤーが人類に近づけますように。

簡単な総括

何かに熱中するには熱量が必要なんだということを実感した1年だった。

学生の頃は自分が好きなことをやってるときは随分のめり込んでやっていたと思うけれど、
最近は自分が好きなことであろうと「よし、やるぞ」とワンクッションいれて自分を奮い立たせないと、
何事にもなかなか手が付かないという情けない感じになりつつある。

学生の頃は無限にあったように思えた時間もだんだん目減りしてきて、
なんだか人生もあと1/4くらいしか残されていない気分。
実際はまだ少なく見積もっても2/3くらいは残ってるんだろうし、
来年は変革ある1年にしたいね。

がんばります。

Pepperって何するロボットなの

子供の頃憧れてた未来がどんなものだったかと言えば、絶対にガンダム的な世界だった。
あれから小説・漫画・アニメで『SFっぽい』世界の作品がずっと好きだけれど、
やっぱり現実世界は物足りない。全然ガンダム的じゃないもの。Pepperとか望んでないもの。
そういえばビックカメラにあるPepperが女児を前に「ロボットなのにこんなに滑らかに腰が動くんですよー」と、
腰を振り始めた時…いや、自分の心が汚れているだけか。

それでも分かり易く自分が望むような未来を感じられることの一つが人工知能関連の技術なんじゃないかなと思う。
将棋や囲碁でヒトに勝つとか華々しいことをやってるけど、裏ではもっとすごいことが進みつつある…んでしょう?
典型的文系脳なんで、具体的にどういうことをやって、だから何がすごいっていうのを理論立てて理解・説明できないのが悔しいけれど、何かすごいって…ほら、本に書いてあった。

だけど今回話したいのは、華々しいほうの話。いや、実際華々しいのかは知らないけど。

この前、謎の囲碁AI(らしきもの)が登場して、プロ棋士に善戦した既存のAIを圧倒したというニュースを見かけた。

headlines.yahoo.co.jp

このニュースを見て「ヒカルの碁」を読んだことがある人なら、ピンと来るものがあるはず。
(簡単に説明すると主人公に取り憑いた幽霊が囲碁のネット対戦で一時期だけ名前を轟かせるっていう展開があった)

AIが無ければ(もしくは流行っていなければ)「こいつは一体何者なんだ…」ってなったはずが、
現状「どうせAIなんでしょう」ってなってることにもったいなさを感じてしまう。
そして本来未来にロマンを感じて生きてきたはずなのに、未来にロマンを殺されている事象に目撃してしまった感じ。
この気まずさが気持ち悪い。

まだAIより人の方が強いとしても(将棋に至ってはまずこの前提が崩れ始めてるけど)、いずれAIがゲームを解き明かしてしまう可能性があるということがとても無粋なことに思えてしまう。
完全な手順を掘り尽くされることがなかったとしても、戦術研究などに使われるようになるのはもう免れられない。
裸一貫定石を積み上げてきたはずなのに、ここまで来て近道しちゃっていいの?
強くなることが目的で手段を選ぶ必要がないっていうなら、囲碁将棋が持つ文化的な一面を捨てることになる気がするんだけど、それは素人の浅はかな考えなのかな。
人工知能が便利なのはわかるし、これからも必要になっていく技術なんだろうけど、思考停止で何にでもってなっちゃうとそれこそ人間なんて必要なくなっちゃうし。

無駄で、レトロで、古臭い部分程大切にしなきゃいけない時代になってきているのかね。

こんなことならPepperが腰を振っているのを眺めて満足しておけばよかったと思っても遅いんですからね。